2009年06月16日

野菜を漬けたものを意である沈菜

キムチ(??)は白菜などの野菜を薬念(ヤンニョム)と呼ばれる薬味で漬けた、朝鮮を代表する漬物。朝鮮漬とも。

一般的なキムチは唐辛子がふんだんに使われており、真っ赤な色が特徴的の大変辛い漬物である。辛いだけでなく薬念と乳酸発酵による旨味と酸味が混じり合った複雑な味を持ち、韓国以外でも米食文化圏においては一般的に食されている。一方で、その辛さや薬念に使うニンニクの臭いから敬遠する人も多い(ただし、本来、キムチとは朝鮮語で「野菜を漬けたもの」という意味であり、唐辛子の有無は関係がない。唐辛子やニンニクを使わないキムチも存在する)。

朝鮮半島を発祥とし朝鮮民族やその料理にとって欠かせない食品であるため、大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国だけでなく海外の朝鮮民族の多く暮らす地域では市場などで簡単に手に入る。
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日本でも一般的で、人気のある食品であり、単独であるいは付け合せ(特に焼肉店)として食べられるほか、豚肉と一緒に炒めた「豚キムチ」などの材料や、チゲの具(キムチチゲ)としても用いられる。

言葉 [編集]
朝鮮語で「野菜を漬けたもの」の意である沈菜(??、チムチェ)が語源であるとされる。ただし、沈漬(チムチ)、鹹菜(ハムチェ)等、その他の語源説もある。

キムチの英語表記について、Kimuchi(日本語・カナから転写)と表記し発売・輸出したものが日本で定着し世界に広がりつつあったが、韓国側は正しくはKimchi(朝鮮語音からマッキューン=ライシャワー式にて転写)であると主張し、論戦となった。そのため、1996年3月に国際食品規格委員会(CODEX)のアジア部会にて韓国側のメンバーから国際的な「キムチ」の定義を行おうと提案があり、韓国側の主張が認められた。なお、文化観光部2000年式ではGimchiであり、こちらの表記で書かれる場合もある。

2009年05月30日

大奥の和宮

文久元年(1861年)11月15日、和宮一行は江戸城内の清水屋敷に入った。11月21日、登城した岩倉具視・千種有文は老中・久世広周、安藤信正とおいて会見し、「幕府は和宮を人質に天皇に譲位を迫るつもりだ」との風説について詰問し、幕府に二心無いことを示すため、将軍自らが書いた誓紙を朝廷に提出することを求めた。

12月11日、和宮は江戸城本丸大奥に入る。江戸到着から入城まで1ヶ月近くを要したのは、御所風の遵守という点で和宮側と幕府・大奥側の調整が難航したためである。同13日、先の岩倉らの要求に屈する形で将軍・家茂は和宮降嫁に関して幕府に二心の無い旨の誓紙を書き、翌日に岩倉らはこの誓書と老中の副書を持って江戸を発ち、京に戻った。

この頃には、庭田嗣子の書状によって和宮の江戸での状況は孝明天皇の知るところとなっていた。書状には、

和宮の「御所風の暮らしを」との要望が殆ど守られていない。
明春の仁孝天皇の年回忌のための上洛が「和宮や女官たちが江戸での暮しになれていないから」との理由で延期を要請された。
天璋院が、和宮に様々な無礼をはたらいた。
和宮と自分達に宛がわれた部屋は暗くて狭い。
大奥の女たちと折り合いが悪く、和宮が涙したこともある。
ことなどが書かれていた。天皇は釈明のため老中か若年寄を京に呼び出すようとの意向を示したが、九条尚忠・岩倉具視らが幕府と交渉して、天璋院に事の次第を糾すことなどで決着を図っている。ただし、孝明天皇は「御所風は和宮に限った特例である」としており、後の御台所がこれに倣う必要の無いことや、武家の棟梁たる将軍が御所風に影響されて柔弱にならぬよう気をつけるようとの意向を文久2年(1862年)正月に和宮に宛てた手紙に記している。

文久2年(1862年)2月11日、和宮と家茂の婚礼が行われる。その様子はそれまでの13代の将軍たちの婚儀とは異なっていた。和宮が征夷大将軍よりも高い身分である内親王の地位で降嫁したため、嫁入りした和宮が主人、嫁を貰う家茂が客分という逆転した立場で行われることとなった。このことは後々まで江戸城内において様々な形で尾を引くこととなった。

その後、京都では尊皇攘夷を唱える志士が各地から集まる事態となり、朝廷は薩摩藩の島津久光に市中の警備を依頼。 これに応えて朝廷の信頼を得た久光は、自身が構想する幕政改革案、

将軍が諸大名を率いて上洛し、国事を議すること。
沿海5大藩の藩主を大老に任じて国政に参加させる。
一橋慶喜を将軍後見職に松平春嶽を任じ将軍の補佐にあたらせる。
の三ヶ条を朝廷に献策し、朝廷はこれを幕府に要求するため勅使・大原重徳を江戸に派遣する。勅使一行は薩摩藩兵に警護されて6月7日に江戸入り。大原は幕府への物とは別に和宮宛の勅書も持参しており、それには「天皇の思召しと行き違いが無い様、三ヶ条の要求は和宮から将軍に伝えるように」とあり、6月13日に和宮は勅書の写しを将軍に手渡している。7月1日、幕府は三事策を受け入れ、大原は22日に京に戻った。
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8月に入ると、京では攘夷を一向に実行しない幕府への批判から、天皇の「攘夷親征」に期待する声が強まった。同時に和宮の降嫁に尽力した公卿・女官等への反発も強まり、久我建通・岩倉具視・千種有文・富小路敬直が蟄居・辞官・落飾。前月に関白を辞していた九条尚忠も重慎み・落飾。堀河紀子・今城重子は辞官・隠居・落飾を命じられた。

10月12日、朝廷は幕府に破約攘夷を督促するため、三条実美・姉小路公知の両名を勅使として派遣。11月27日、両勅使は将軍に対面(江戸には10月28日に着いていたが、将軍が麻疹にかかっていたため対面が遅れた)。12月5日には「攘夷実行について説明するため上洛する」旨の返答書を受け取り、江戸を後にする。

これに先立つ11月23日、幕府は天皇の叡慮に従う形で和宮の呼称を「御台様」から「和宮様」へ改めると発表。

文久3年(1863年)2月13日、家茂は江戸を出立。和宮は家茂の無事を祈り、24日から増上寺の黒本尊の御札を勧請し御百度を踏んでいる。家茂は2月19日に二条城に入り、3月7日に参内、11日には孝明天皇の加茂行幸に供奉した。4月11日の石清水八幡宮への行幸には風邪による高熱を理由に欠席したが(天皇から「攘夷の節刀」を受けるのを避けるために仮病を使ったといわれる)、「5月10日を以って攘夷を実行する」旨の奉答書は出さざるを得なかった。6月16日に家茂は海路にて江戸に帰還した。

八月十八日の政変で長州藩を始めとする過激な尊皇攘夷を唱える勢力が京都から追放されると、同29日、家茂に対し再び上洛せよとの天皇の内意が出た。和宮は将軍出立前の9月4日から春日神社にお百度詣でを始め、11月10日には朝廷に「御用の済み次第、将軍の速やかな江戸帰還」を願っている。12月27日、家茂は海路を京へ向けて出立した(翌年5月8日帰府)。

元治元年(1864年)7月19日、先の政変で都を追われた長州藩が御所を襲撃する禁門の変が起る。8月2日、家茂は長州征伐の命を下す。長州藩は事変の責任者を処分し、藩主父子が謝罪文を提出して恭順の意を表して事態は一旦収束する。しかし12月15日、長州藩で政変(功山寺挙兵)が起り、尊攘派が再び政権を握った為、家茂は自ら指揮を執っての長州征伐に乗り出す。慶応元年5月16日、家茂は大奥対面所で和宮の見送りを受けた後、品川から海路大阪へ向かった。これが二人の今生の別れとなる。

2009年04月10日

近代音楽

近代音楽(きんだいおんがく)は、西洋のクラシック音楽においておおよそ20世紀初頭(あるいは19世紀末)頃から第二次世界大戦の終わり頃までの音楽を指す。

それ以降の音楽は現代音楽と呼ばれるが、本稿で扱う近代音楽に対しての現代音楽との境界は現在も議論が続き、第一次世界大戦後、第二次世界大戦後、1950年などいくつかの意見がある。また、このような分類をしないで1900年以降を全てまとめて現代音楽とするという考えもある。本稿では冒頭の通り、20世紀初頭から第二次世界大戦の終わりまでを近代音楽と定義する。
ドイツ語圏 [編集]

後期ロマン派の延長から無調音楽へ [編集]
20世紀初頭から第一次世界大戦までは、後期ロマン派の延長上にある音楽がドイツ語圏、特にオーストリアのウィーンを中心に多く作られた。マーラーやリヒャルト・シュトラウスなどがその代表と言える。またツェムリンスキーから新ウィーン楽派の初期にかけてが、この後期ロマン派の最後期と見てよい。シェーンベルクの「浄夜」「ペレアスとメリザンド」「グレの歌」、ベルクの「ピアノソナタ」、ヴェーベルンの「夏風の中で」などがそれにあたる。

シェーンベルク、ベルク、ウェーベルンはそれらの初期作品の後、1908年頃から徐々に調性を放棄し無調による表現主義と呼ばれる作風へ至った。また1920年代にはそれを組織化する手段として十二音技法を生み出し、以後この技法による表現の可能性を各人がそれぞれ独自性をも示しつつ探求した。

これに対し、ツェムリンスキーやシュレーカーは機能和声からは離脱し、部分的には複調も取り入れつつも、その後も後期ロマン派の香りを留めた調的作品を残した。

新ウィーン楽派の影響を受けたその後の世代の作曲家にはクレネクやアイスラーがいる。クレネクは若い頃は新古典主義様式による歌劇を大ヒットさせたりしていたが、1930年代後半からは十二音技法を取り入れた。アイスラーは無調や十二音技法の影響をうけつつも、政治的作品を多く残し、大衆への訴えのために平明な調的語法も用いた。

その他のドイツ語圏の動向 [編集]
新ウィーン楽派以外の動向では、拡大された調性によるネオ・バオック的新即物主義、新古典主義のヒンデミットがドイツ語圏では最も強い影響力を持っていた。そのほか、近代的な味付けを施して後期ロマン派を継続させたコルンゴルト、無調や複調を用いて20世紀の不安を暴力的に描くK・A・ハルトマン、独特なオスティナート語法が特徴的なカール・オルフなどが挙げられる。その後の世代としては、ブラッハー、アイネムなどがヒンデミット的な全音階的調的語法を受け継いだ。

フランスおよびフランス語圏 [編集]

印象主義、原始主義の音楽とロシア・バレエ団 [編集]
フランスではサン=サーンス、フォーレ、ショーソンといった19世紀後半より活躍した作曲家たちが、ワーグナーの影響を受けながらもフランス独特の音楽様式を確立していた。その様式のエスプリ(精神)は保ちながらも、音楽的には機能和声の放棄というまったく新しい語法を開拓したのがドビュッシーであり、ラヴェルと共に美術の印象派(印象主義)になぞらえて「印象主義の音楽」と呼ばれた。実際は、ラヴェルの方が印象主義を先取りしたと言われている(どちらが先かという問題に対しては、関係項目を参照)。彼らは感覚的ではあるが高次倍音を取り込んだ新たな和声や、聴き手に視覚的な印象を想起させる色彩的で遠近法的な管弦楽法を生み出した。またドビュッシーによってはじめて多用された全音音階は、調性感覚を薄める音楽語法の一つとして注目され、以後多くの作曲家が追随した(全音音階は部分的な使用についてはグリンカなどにも先例があるが、繰り返し使用して一般に認知されたのはドビュッシーからである)。

またこの頃ディアギレフが主宰するロシア・バレエ団(バレエ・リュス)がパリで活躍し、多くの作曲家にバレエ音楽を委嘱した。前述のドビュッシーやラヴェルも、彼らの代表作の1つとなるような作品を残したが、このバレエ団によって世にその名を轟かせたのはなんといっても、この時代はフランスで活動したロシア人ストラヴィンスキーだろう。初期三大バレエと呼ばれる「火の鳥」「ペトルーシュカ」「春の祭典」を続けて発表するが、3作目の「春の祭典」はあまりにショッキングな作風のため、会場のシャンゼリゼ劇場は演奏中から乱闘騒ぎを起こし、空前絶後の混乱に陥った(ただし、パリ市民の音楽界での乱闘騒ぎは、過去にワーグナーの「タンホイザー」パリ初演などの例がある)。しかし翌年演奏会形式で再演したときには好評を持って迎え入れられ、新たな音楽の潮流として世に認められた。

新古典主義 [編集]
新古典主義はフランスだけの現象ではないが、主要な作曲家にフランスにかかわりのある人物が多いのでフランスの項で扱う。

ストラヴィンスキーは三大バレエ音楽の後、この新古典主義へと作風を転換した。またフランス六人組と呼ばれる作曲家およびその周辺の同世代の作曲家(イベールやルーセルなど)は、年長のサティを旗印とし(ただし後に一部は絶交)、美術家のピカソや詩人コクトーらとも関わりながら音楽活動を展開した。他にスペイン人だがフランスに関わりの深いファリャの後期作品(例えば「クラヴサン協奏曲」)などにも新古典主義の影響が見られる。

木管楽器の音楽とオルガン音楽の発展 [編集]
フランス楽派と呼ばれる演奏流儀が、パリ音楽院の器楽科を中心として20世紀初頭ごろより勃興した。特に木管楽器は楽器の改良と共に奏者の技術も目覚しく発展し、それに伴い多くのフランスの作曲家が、日々進歩する楽器の性能を駆使しつつ多くの新しい曲を生み出した。木管楽器奏者のソロや室内楽のレパートリーには、現在もなおこの時代のフランスの音楽が多い。

またオルガン音楽もこの頃特に盛んであった。オルガンは主に教会のミサで演奏されることが多く(フランスはカトリック国であり、ほとんどの教会はカトリックのしきたりに沿ってミサを行う)、司祭をはじめ会場の動きや時間配分に合わせて即興演奏を行う必要がある。よってオルガンには即興演奏が付きものなのだが、19世紀のフランク以来の流儀を引き継いで、フランスのオルガン音楽は即興のみならず目覚しい発展を遂げた。またもちろん、優れた即興を書き留めてそれを元に作品を練り上げることもあった。この分野ではデュプレをはじめ、後述のトゥルヌミールやジャン・アラン、さらにヴィドール、デュリュフレなどが挙げられる。メシアンもオルガニストとして活躍し、生涯の広範囲にわたって多くの優れたオルガン音楽を作曲している。

ジュヌ・フランス [編集]
フランス六人組よりもさらに若い世代として、ジュヌ・フランス(若きフランス)と呼ばれる作曲家グループが結成された。主要なメンバーはメシアン、デュティユー、ジョリヴェである。彼らはその活動の最初期において、フランス近代音楽の潮流を引き継ぎつつも、調性音楽からの乖離を試みた。しかし新ウィーン楽派のように、旋法性などをも全面的に否定した訳ではなかった。その他、オルガン音楽の分野で有名なトゥルヌミール、ジュアン・アランらもメンバーであった。ジュアン・アランはオルガニスト・マリー=クレール・アランの兄であり、彼自身もオルガン曲を中心に活発な作曲活動をしていたが、第二次世界大戦で戦死した。

特筆すべきは、メシアンが1930年代に本格的な作曲活動を開始したばかりの頃、同時期に生まれたばかりの新しい電子楽器オンド・マルトノを複数用いて作曲していることが挙げられる。委嘱による機会ではあったが、その中の1曲「美しき水の祭典」は、その後彼が第二次世界大戦で捕虜となった際に書かれて代表作の1つとなった「世の終わりのための四重奏曲」に転用している。ジョリヴェも戦後まもなく「オンド・マルトノ協奏曲」を作曲した。

イタリア [編集]
オペラにおいては、マスカーニの「カヴァレリア・ルスティカーナ」の大成功(1890年)を受け、ヴェリズモ・オペラの流行が起きた。同作およびレオンカヴァッロの「道化師」の2作がその傾向の代表作とされる。彼らと同世代に属するプッチーニはもともとヴェリズモの影響を受けつつ後期ロマン派の作風から出発したが、20世紀に入ると全音音階や激しい不協和音・平行5度を多用するなど、部分的には同時代の先端の技法を取り入れていて、イタリア印象主義音楽の先駆者となった。

イタリアの音楽界は圧倒的にオペラ中心であり、演奏会用の管弦楽や室内楽を積極的に書く作曲家はなかなか現れなかった。そこに現れたのがレスピーギである。中でも「ローマの松」において、実際の鳥の声を録音したものを上演中に再生して使用する試みは注目に値する。レスピーギはまた旋法の復興にも熱心であり、この点では同時代のフランス音楽とも共通する語法を探求したと言える。レスピーギと同世代のカゼッラ、マリピエロ、ピツェッティの3人は複調や新古典主義などの近代的語法をより本格的に取り入れ、イタリア近代音楽に大きく貢献した。

前衛的な活動としてはダラピッコラによって、イタリアにおける最初期の十二音技法の試行が挙げられる。実際は同時期にシェルシによっても同様の試みが行われていたが、シェルシにとって十二音技法は自己の語法とあまりにかけ離れており、結果的に精神的破綻を起こしてしまう。以後は異なる作風に転向した。シェルシの音楽は1980年代のケルンのISCMの現代音楽祭でツェンダーにより指揮され、ようやく世界的に認識された。

ラージヒル ニズム グアナコ キナパー レール ソング ジョッキー ロール ヒアシン オイヒバ アース ピーピーシー ダイエ バッグ リプレース おたま キング アルタイ キング マネキ ぴんぞろ エッジ プロテク ニバナ ヒッチハイ ひこうき ハバネロ ハムエ てんえい プリオン 相合傘相 マッサ ヤダケ ビネガー ファンド イヌイッ モルドバ コマソン カートン てんま りゅうちょう アラス マヌカン アナカン セフレ デビュー スリッペ ノンプロ ライトノ たいむ


2009年03月26日

各動画には説明文のほか

各動画には説明文のほか、タグと呼ばれる動画の内容を指し示す検索用キーワードを10個まで登録することができる。タグの導入により似たような動画を容易に探せるような仕組みになっている。タグは2008年5月より導入された「ニコニコ大百科」と連動しており、そのタグに関する解説や経緯、そのタグをつけられた代表的な動画などを知ることができる。

ニコニコ動画では動画投稿者だけではなく閲覧者も自由にタグを登録することができるのが最大の特色である。本来は検索機能として用いられるタグだが、動画の内容に絡めたネタ的なタグ付けやニコニコ特有のタグ付け(「才能の無駄遣い」や「孔明の罠」などが代表例)も多く見られ、独自の異彩を放っている。

しかし、この仕組みが災いし、しばしばタグ付けが検索の妨げとなってしまうメタ・ノイズや、タグを用いた他者の誹謗中傷などの荒らしの発生につながってしまうこともある。特に注目を集める動画やランキング上位の動画においては、閲覧者らが自分のふさわしいと信じるタグ付けとタグ削除を相互に争うように行う「タグ戦争」と呼ばれる現象も発生する。この「タグ戦争」中、まれに殺人予告などがタグに書き込まれる場合がある。荒らし回避のため、あるいは著作権上問題のある(もしくは規約に抵触するおそれのある)動画が削除されるのを防ぐため、意図的にタグを付けない事もある。

動画投稿者は、閲覧者によるタグ削除(削除荒らしなど)への対処として、自身の投稿した動画のタグに最大5個までロック機能をつけて固定することができるようになっている。

また、タグは各言語版それぞれに異なるもの持っており、日本語版から見た海外版のタグを「海外タグ」と呼ぶ。他言語版のサイトが出来た当初は海外タグの閲覧も可能だったが、現在日本語版からの閲覧は出来ない仕様になっている(そのほかの言語間では可能)。他言語版のタグはその言語のサイトにアクセスしない限り編集出来ない。

検索機能
検索機能では、動画につけられているタイトル、説明文、タグを元に、動画の検索ができる。検索結果は投稿日時及び再生回数のそれぞれで昇順、降順にソートすることが可能である。また、きまぐれ検索というニコニコ動画に登録されている動画を任意に抽出して検索することも出来るようになっている。(ニコニコ動画(秋)より廃止)なお、ニコニコ動画は、海外の動画共有サイトとは異なり日本国内のサイトであるため、投稿される動画のタイトルやタグもほぼすべてが日本語であり、検索が容易である。

メンテナンス
毎日AM5:00?AM6:00ごろは定期メンテナンスがある。この時間内はサイト内のコンテンツに繋がり辛くなる。その他にも、不定期で緊急メンテナンスが実施されることがあるが、その場合は事前に告知されることが多い。

フィルター ダミー ドライブイ とっこ クーガー ミズム ソリッド カカオ ゲルサンド ザ・サボイ ソケット ジュート デイオ シェークス 澪標恋 フォーラ フーディア 自由の幻想 スペアリブ オーバー スペイン ピーエル スポッタ サチュ レンツェ リベラル インダー かえる ロウバ パイロ メーン フォックス ブラック シロヤ ブロー パトロー フラダンス タイボ ドジェ ひらない ちょうらく ニワウメ テディ コールド マナイ ザック ローブロ デーション ソール フライ

2009年03月11日

メサ・ヴェルデ国立公園

メサ・ヴェルデ国立公園 (Mesa Verde National Park) はコロラド州南西部に位置するプエブロインディアンのアナサジ族の残した断崖をくりぬいた一連の集落遺跡群で、現在国立公園になっている。また、世界遺産にも登録されている。スペイン語で、緑の台地という意味である、メサ・ヴェルデは81.4 mi? (211 km?) の地域を占めている。この入口は Cortez の町の東約9マイル (15 km) に位置している

メサ・ヴェルデ遺跡の存在は、1874年には知られていたが、本格的な考古学的調査の契機になったのは、1888年に 当地の牧場主リチャード・ウェザーリルによって「クリフ・パレス」が発見されて以来、ウェザーリル兄弟が一般調査で108ヶ所に及ぶ断崖をくりぬいた集落を確認してからである。 1891年に、考古学者であるジェズ・ウオルター・ヒュークス(J.W.Fewkes)とスウェーデン出身の 地質学者グスタフ・ノルデンシェルド[2] によって初めて本格的な発掘調査がされた。

この地域は1906年7月29日に国立公園として制定された。w:National Park Serviceによって管理されているすべての歴史的地域と同じく、この公園は1966年10月15日にw:National Register of Historic Placesの一覧に記載された。ここは1978年9月6日に世界遺産 (文化遺産) に登録された。

メサ・ヴェルデ管理地区 は1987年5月29日にアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定された。

1世紀ごろから、この地に農耕民であるアナサジ族が住み始めたと推測されている。アナサジ族は、8世紀ころまでバスケット・メーカー文化と呼ばれる独特なかご作りで知られる文化を築いていたが、9世紀ころからキヴァという儀式を行う施設を伴う日干し煉瓦の壁によって区画された集落遺跡を築くようになる。これをプエブロ文化と呼び、 12世紀頃になると、外敵の襲来に備えた、本格的な「岩窟住居」を作り、そこに住み始めたと考えられている。 同時期の遺跡としては、ニュー・メキシコ州北西部の半円形の壮大なプエブロ・ボニート遺跡を中心とするチャコ・キャニオンの遺跡群が知られている。その他にも、ユタ、コロラド、アリゾナ、ニュー・メキシコ4州の州境が1点に集まるフォー・コーナーズ周辺にはコロラド州のメサ・ヴェルデをはじめとして、アリゾナ州のキャニオン・デ・シェイ、ユタ州のホヴンウィープなど数多くの遺跡群が見られる。ユタ州側にあるホヴンウィープ国定公園の遺跡群は極浅い谷あるいは涸れ沢の縁の平地に散在する形をとる。メサ・ヴェルデの住居遺跡がメサ上に少ないのは保安のための他に農耕に適したメサ(台地)上を農耕に優先したとのこともある。アナサジ族のこのような日干し煉瓦による壮大な建物が建てられた時期はプエブロIII期と呼ばれる。14世紀になると、とつぜん放棄されたと推測されており、謎となっている。 なお、アナサジとは、アナサジ族が消滅もしくは移住した後に同地域に流入し、現在も居住する先住民であるナバホ族の言葉で「古(いにしえ)の敵」あるいは「古の人々」を意味するが、現在は「先プエブロ[3]」を意味する英語の "the Ancestral Puebloan" という表現を使う方向にある。
はにー ファイバ ていん| ジェス オフス たけざお おはじき 一等星 アップ ファー イコノロジー プロテイ ローカル シンプ けん蔵 フリース メモリー はこだて マルチ パルプ シェーバー トライアン ミンク ブティッ 翠の月 ゲスロ コピペ シエラ ネガティブ ずいき ゼンマイ きない トロッ デニール プロデビー ハネム オフタ リヤカー ドーミー カーウォ ボーイ 三和音 ゾル ぎぼう 大逆転 小さい魔女 ソダラ 夢列車 ゴスロ マジッ

クリフ・パレスといわれる「岩窟住居」による集落が公園内最大の遺跡である。200室ほどあり、一番高いところの高さは、4階建て相当にもなる。さながら高級マンションのようでもある。クリフ・パレス、ロング・ハウスなど主要な遺跡コンプレックスへの立入りは公園レンジャーの引率によるツアー(有料)のみで許されている。シーズン中は混雑するので朝一番にビジター・センターで申し込む必要がある。

ニューメキシコ州とコロラド州に住むプエブロ族は、現在もこのような巨大集団住居からなる大集落を有している。

2009年02月22日

ベーシック英語

ベーシック英語(Basic English)とは、イギリスの心理学者、言語学者のチャールズ・ケイ・オグデンによって考案された人工言語である。文法は英語の文法を簡略化したもので、少ない単語で表現されている。ベーシック英語に関する彼の著書『A General Introduction with Rules and Grammar (1930)』は、それについて書かれている。
ババロア フィラン マッチン ビジネス ハワイ ヒューズ ダグアウト マルチ プレムハブ スノーフ 流星群 にんきょう ミステ ぶんぶん ブラテ ハイヒール シングル ラバト ブルンジ バックオ ナッソー トラン ラムサー 鈴蘭 セラセラ つるみ マルセイ コピーイノ ゲーター ブラッド トパイ バーバレ パブリ レベニュ フォーム メタ いささや ハイウエイ ダルトン ハリアー ビーコン ガター サイドカー あぼがど ジンセン スプリング ユリノ ジャーゴン アニムス ビッドレ

オグデンによると、通常の英語を学習するには7年、エスペラントには7ヵ月必要であるのに対して、ベーシック英語は7週間で学習することができるとされる。そのためベーシック英語は、難解な内容の書籍を全世界向けに刊行しようとする企業や、単期間で英語を学ばせようとする語学スクールで活用されている。

ベーシック(Basic)には「基礎の、初歩的な」という意味があり、またBritish, American, Scientific, International, Commercial(イギリスの、アメリカの、科学の、国際上の、商業の)の頭字語でもある。

ベーシック英語では基本単語が850(および国際的な単語が78)と語数を少なくしている。それにもかかわらず、オグデンによれば英語での表現と同じような表現ができるという。

動詞、名詞が少なくなっている分を、複数の語を組み合わせたり、一つの単語に複数の意味を持たせたりすることで補っている。

ウィンストン・チャーチルは1944年にハーバード大学での談話でこの言語を国際語として使うことを推奨した。

単語リスト
ベーシック英語で用いる 850 の基本語。

動作に関するもの - 100 語
come, get, give, go, keep, let, make, put, seem, take, be, do, have, say, see, send, may, will
about, across, after, against, among, at, before, between, by, down, from, in, off, on, over, through, to, under, up, with, as, for, of, till, than,
a, the, all, any, every, no, other, some, such, that, this, I, he, you, who,
and, because, but, or, if, though, while, how, when, where, why,
again, ever, far, forward, here, near, now, out, still, then, there, together, well
almost, enough, even, little, much, not, only, quite, so, very, tomorrow, yesterday
north, south, east, west, please, yes.

物事に関するもの - 400 の一般的な語
account, act, addition, adjustment, advertisement, agreement, air, amount, amusement, animal, answer, apparatus, approval, argument, art, attack, attempt, attention, attraction, authority, back, balance, base, behaviour, belief, birth, bit, bite, blood, blow, body, brass, bread, breath, brother, building, burn, burst, business, butter, canvas, care, cause, chalk, chance, change, cloth, coal, colour, comfort, committee, company, comparison, competition, condition, connection, control, cook, copper, copy, cork, cotton, cough, country, cover, crack, credit, crime, crush, cry, current, curve, damage, danger, daughter, day, death, debt, decision, degree, design, desire, destruction, detail, development, digestion, direction, discovery, discussion, disease, disgust, distance, distribution, division, doubt, drink, driving, dust, earth, edge, education, effect, end, error, event, example, exchange, existence, expansion, experience, expert, fact, fall, family, father, fear, feeling, fiction, field, fight, fire, flame, flight, flower, fold, food, force, form, friend, front, fruit, glass, gold, government, grain, grass, grip, group, growth, guide, harbour, harmony, hate, hearing, heat, help, history, hole, hope, hour, humour, ice, idea, impulse, increase, industry, ink, insect, instrument, insurance, interest, invention, iron, jelly, join, journey, judge, jump, kick, kiss, knowledge, land, language, laugh, law, lead, learning, leather, letter, level, lift, light, limit, linen, liquid, list, look, loss, love, machine, man, manager, mark, market, mass, meal, measure, meat, meeting, memory, metal, middle, milk, mind, mine, minute, mist, money, month, morning, mother, motion, mountain, move, music, name, nation, need, news, night, noise, note, number, observation, offer, oil, operation, opinion, order, organization, ornament, owner, page, pain, paint, paper, part, paste, payment, peace, person, place, plant, play, pleasure, point, poison, polish, porter, position, powder, power, price, print, process, produce, profit, property, prose, protest, pull, punishment, purpose, push, quality, question, rain, range, rate, ray, reaction, reading, reason, record, regret, relation, religion, representative, request, respect, rest, reward, rhythm, rice, river, road, roll, room, rub, rule, run, salt, sand, scale, science, sea, seat, secretary, selection, self, sense, servant, sex, shade, shake, shame, shock, side, sign, silk, silver, sister, size, sky, sleep, slip, slope, smash, smell, smile, smoke, sneeze, snow, soap, society, son, song, sort, sound, soup, space, stage, start, statement, steam, steel, step, stitch, stone, stop, story, stretch, structure, substance, sugar, suggestion, summer, support, surprise, swim, system, talk, taste, tax, teaching, tendency, test, theory, thing, thought, thunder, time, tin, top, touch, trade, transport, trick, trouble, turn, twist, unit, use, value, verse, vessel, view, voice, walk, war, wash, waste, water, wave, wax, way, weather, week, weight, wind, wine, winter, woman, wood, wool, word, work, wound, writing, year

物事に関するもの - 200 の視覚に訴える語
angle, ant, apple, arch, arm, army, baby, bag, ball, band, basin, basket, bath, bed, bee, bell, berry, bird, blade, board, boat, bone, book, boot, bottle, box, boy, brain, brake, branch, brick, bridge, brush, bucket, bulb, button, cake, camera, card, cart, carriage, cat, chain, cheese, chest, chin, church, circle, clock, cloud, coat, collar, comb, cord, cow, cup, curtain, cushion, dog, door, drain, drawer, dress, drop, ear, egg, engine, eye, face, farm, feather, finger, fish, flag, floor, fly, foot, fork, fowl, frame, garden, girl, glove, goat, gun, hair, hammer, hand, hat, head, heart, hook, horn, horse, hospital, house, island, jewel, kettle, key, knee, knife, knot, leaf, leg, library, line, lip, lock, map, match, monkey, moon, mouth, muscle, nail, neck, needle, nerve, net, nose, nut, office, orange, oven, parcel, pen, pencil, picture, pig, pin, pipe, plane, plate, plough, pocket, pot, potato, prison, pump, rail, rat, receipt, ring, rod, roof, root, sail, school, scissors, screw, seed, sheep, shelf, ship, shirt, shoe, skin, skirt, snake, sock, spade, sponge, spoon, spring, square, stamp, star, station, stem, stick, stocking, stomach, store, street, sun, table, tail, thread, throat, thumb, ticket, toe, tongue, tooth, town, train, tray, tree, trousers, umbrella, wall, watch, wheel, whip, whistle, window, wing, wire, worm.

状態に関するもの - 100 の一般的な語
able, acid, angry, automatic, beautiful, black, boiling, bright, broken, brown, cheap, chemical, chief, clean, clear, common, complex, conscious, cut, deep, dependent, early, elastic, electric, equal, fat, fertile, first, fixed, flat, free, frequent, full, general, good, great, grey, hanging, happy, hard, healthy, high, hollow, important, kind, like, living, long, male, married, material, medical, military, natural, necessary, new, normal, open, parallel, past, physical, political, poor, possible, present, private, probable, quick, quiet, ready, red, regular, responsible, right, round, same, second, separate, serious, sharp, smooth, sticky, stiff, straight, strong, sudden, sweet, tall, thick, tight, tired, true, violent, waiting, warm, wet, wide, wise, yellow, young.

状態に関するもの - 50 の相対する語
awake, bad, bent, bitter, blue, certain, cold, complete, cruel, dark, dead, dear, delicate, different, dirty, dry, false, feeble, female, foolish, future, green, ill, last, late, left, loose, loud, low, mixed, narrow, old, opposite, public, rough, sad, safe, secret, short, shut, simple, slow, small, soft, solid, special, strange, thin, white, wrong.

2009年02月06日

大久保利通

大久保 利通(おおくぼ としみち、文政13年8月10日(1830年9月26日) - 明治11年(1878年)5月14日)は、日本の武士(薩摩藩)、政治家。位階勲等は従一位勲一等。
大和撫子 きゃく サバンナ スキニー 情熱支援 ジャング ナリー ハンドカ ヒットパレ シリング ファンキー サーモス カペラ サラリー ニッケ フリフリ シュプネ ルサン レセプト パング テーション ジェロ スイス イライン おりあお パラシ バーゼル 夢街道 桜雨1押 ノート ワスレ どんしゅう プリン ジャスラック レア日本 永遠偉 白い街 パイロット ブイディ ストーブ チャウダ トカラ 管弦 アビブ スター スティック オモ モカ モンタナ ほうすう

維新の元勲。西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。

文政13年8月10日(1830年9月26日)、薩摩国鹿児島城下高麗町(現・鹿児島県鹿児島市高麗町)に、琉球館附役の薩摩藩士・大久保利世と皆吉鳳徳の次女・福の長男として生まれる(幼名は正袈裟:しょうけさ)。大久保家の家格は御小姓与と呼ばれる身分である下級藩士であった。本姓は藤原氏を称するが明確ではない。幼少期に加治屋町(下加治屋町方限)に移住し、親友の西郷隆盛、海江田信義らと共に学問を学ぶ。

15歳の時元服し、通称を正助、諱は利済(としさだ)と名乗るが、後に改名する。

弘化3年(1846年)から藩の記録所書役助として出仕する。嘉永3年(1850年)のお由羅騒動(嘉永朋党事件)では連座して罷免され謹慎処分となるが、島津斉彬が藩主となると、嘉永6年(1853年)に藩記録所御蔵役として復職する。安政4年(1857年)には徒目付になる。精忠組の領袖として活動し、安政5年(1858年)の斉彬の死後は、失脚した西郷に代わり新藩主・島津茂久の実父・忠教に友人・税所篤の助力で接近する。篤の兄・吉祥院乗願が忠教の囲碁相手であったことから、乗願経由で手紙を渡したのが始まりといわれる。文久元年(1861年)、御小納戸役に抜擢、家格も一代新番となる[1]。文久元年12月15日(1862年1月14日)から文久2年(1862年)3月上旬までの間に久光から一蔵の名を賜り改名する。文久2年(1862年)に御小納戸頭取に昇進となる。文久3年(1863年)には、御側役(御小納戸頭取兼任)に昇進する[2]。

慶応元年(1865年)、利通と改名する。

久光を擁立して京都の政局に関わり、公家の岩倉具視らと公武合体政策を画策し、一橋慶喜の将軍後見職、福井藩主松平慶永の政事総裁職就任などを進めた。西郷や小松清廉と共に政治の中枢として活動する。慶応3年(1867年)に江戸幕府将軍・徳川慶喜が大政奉還を行うと、岩倉ら倒幕派公家と共に、王政復古のクーデターを計画して実行した(小御所会議)。

明治維新後
明治2年7月22日(1869年8月29日)に参議に就任し、版籍奉還、廃藩置県などの明治政府の中央集権体制確立を行う。明治4年(1871年)には大蔵卿に就任し、岩倉使節団の副使として外遊する。外遊中に留守政府で問題になっていた朝鮮出兵を巡る征韓論論争では、西郷隆盛や副島種臣ら征韓派と対立し、明治六年政変にて失脚させた。また同年には台湾出兵を行い、9月14日に戦後処理のため、全権弁理大使として、清に渡った。交渉の末、10月31日、清が台湾出兵を義挙と認め、50万両の償金を支払うことを定めた日清両国間互換条款・互換憑単に調印した。

明治6年(1873年)、内務省を設置し、自ら初代内務卿として実権を握ると地租改正や徴兵令などを実施した。そして、「富国」をスローガンとして殖産興業政策を推進した。また、大久保はドイツ(プロイセン)を目標とした国家を目指していたのではないかといわれるが、実際はイギリスを目標とした立憲君主制の国家を構想していたという。明治6年頃から明治11年まで、大久保を中心とした政権だったため、一般的に「大久保政権」と言われている。 当時、大久保への権力の集中は「有司専制」として批判された。また、現在に至るまでの日本の官僚機構(霞ヶ関官界)は、内務省を設置した大久保によって築かれたとも言われている。

明治10年(1877年)には、西南戦争で京都にて政府軍を指揮した。その後、侍補からの要請に乗る形で自らが宮内卿に就任することで明治政府と天皇の一体化を行う構想を抱いていたが、明治11年(1878年)5月14日、石川県士族島田一郎らにより紀尾井坂(東京都千代田区紀尾井町)にて暗殺された(紀尾井坂の変)(享年49〈数え年〉、満47歳没)。墓所は東京都の港区の青山霊園。

余録
趣味は囲碁。島津久光に接近するために碁を学んだとの話も伝えられるが誤りである(19歳の頃の日記に碁を三番打って負けたとの記述がある)。大変なヘビースモーカーで、濃厚な指宿煙草(日本で初めて栽培されたたばこ)を愛用しており、子供達が朝晩パイプを掃除しなければすぐに目詰まりするほどだった(また、朝用のパイプと夜用のパイプを分けて使っていた)。茶は京都宇治の玉露を濃く淹れたものを好んだ。漬物も好きで、何種類か並んでいないと機嫌が悪かったという。

明治8年から1年かけて、麹町三年町に木造洋館を建てた(建築費用は恩賜金と盟友税所篤からの借金で賄ったとされる。後にこの邸はベルギー公使館となった)。当時は個人の家としては珍しい洋館であった。また、金銭には潔白で私財をなすことをせず、死後は8,000円もの借金が残った。政府は協議の結果、大久保が生前に鹿児島県庁に学校費として寄付した8,000円を回収し、さらに8,000円の募金を集めてこの1万6,000円で遺族を養うことにした。

税所篤が堺県令時代に浜寺公園内の松を伐採して住宅地として開発しようとするが、大久保に反対する歌「音に聞く 高師の浜のはま松も 世のあだ波は のがれざりけり」を詠まれて断念した。

寡黙であり、他を圧倒する威厳を持ち、かつ冷静な理論家でもあったため、面と向かって大久保に意見できる人間は少なかったと言う。人斬り半次郎の異名で恐れられた桐野利秋も、大久保に対してまともに話ができなかったので、大酒を飲んで酔っ払った上で意見しようとしたが、大久保に一喝されてすぐに引き下がったといわれる。また、若い頃から勇猛で鳴らした山本権兵衛も、大久保の前では殆ど意見出来なかったという。

また岩倉使節団の一員として欧米諸国を実際に見るまでは、維新の根幹として、旧来の人事の刷新を最も重要視しており、「国家機構の改革」に重きを置く木戸孝允や大隈重信と対立した。大木喬任や薩摩出身の吉井友実・松方正義ら倒幕に尽くした人々を重く用いて、彼らとともに能力次第では旧幕臣を登用する木戸・大隈の人事方針を「旧弊の温存」と批判して「冗官整理」を口実に幕臣出身者の追放を画策した(明治3年10月三条実美宛覚書)。

渋沢栄一が大蔵省を辞めた原因の1つには大久保が渋沢が旧幕臣というだけでその能力を全く評価しなかったことに失望したからだといわれている[3]。

こうした大久保のやり方は「党派的行動」と見なされて、大隈重信はもちろん、井上馨・後藤象二郎・江藤新平らの抗議を呼び、岩倉具視からも自重を求められるほどであった。だが欧米視察で国家運営の実情を知って以後は、こうしたいわゆる「党派的行動」を改めるようになった。

大久保が内務省に登庁しその靴音が廊下に響くと職員たちは私語を止め、それまでざわついていた庁舎内が水を打ったように静まり返った。また大久保没後の帝国議会で板垣退助が答弁したとき、野次や怒号で騒然となったが、それを見た議員の一人は、「大久保卿であればこんなことにはならないのに」といって大久保の威厳を偲んだ。

内務省で勧商局長などを務めて大久保の部下であった河瀬秀治は、大久保の没後の内務省では、伊藤博文内務卿の部屋で西郷従道や中井弘が盛んに夕べの話をしたり、仲居が出入りするようになるなど、すべてが奢侈に流れ堕落したと嘆いている。

家庭内では子煩悩で優しい父親だったという。出勤前のわずか10分か15分の間を唯一の娘である芳子を抱き上げて慈しんだ。また大久保が馬車で自宅に帰ってくると、次男の牧野伸顕と三男の大久保利武ら子ども達が争って、玄関に出迎え靴を脱がせようとして、勢いあまって後ろに転がるのを見て笑って喜んでいた。

青いガラス製の洗面器具を使い、家庭内においても洋間に滞在しながら洋服を着用する、当時としては非常に洋風な生活をしていた。また頭髪をポマードでセットしていた。

江藤新平と島義勇が佐賀の乱で挙兵した際に、直ちに自ら鎮台兵を率いて遠征、瓦解させている。大久保の日記には「江東、陳弁曖昧、実に笑止千万、人物推て知られたり」などと、罵倒している。

鹿児島が暴発したときは、伊藤博文に対して「朝廷不幸の幸と、ひそかに心中には笑いを生じ候ぐらいにこれあり候」と鹿児島の私学校党を一掃できるとした。また西郷については、これでは私学校党に同意せず、「無名の軽挙」をやらかさないだろうと書き送った(明治10年2月7日付書簡)。そして、西郷死亡の報せを聞くと号泣し、時々鴨居に頭をぶつけながらも家の中をグルグル歩き回っていた(この際、「おはんの死と共に、新しか日本がうまれる。強か日本が……」と言った様だ[4])。 また、暗殺された時に生前の西郷から送られた手紙を持っていたと高島鞆之助が語っている。そして、暗殺の直前に「自分ほど西郷を知っている者はいない」と言って、西郷の伝記を書くことを重野安譯に頼んでいたりしていた。

暗殺される日の朝、福島県令山吉盛典に対し、「ようやく戦乱も収まって平和になった。よって維新の精神を貫徹することにするが、それには30年の時期が要る。それを仮に三分割すると、明治元年から10年までの第一期は戦乱が多く創業の時期であった。明治11年から20年までの第二期は内治を整え、民産を興す時期で、私はこの時まで内務の職に尽くしたい。明治21年から30年までの第三期は後進に譲り、発展を待つ時期だ。」と将来の構想を語ったという(『済世遺言』)。

大久保は、西南戦争で西郷と薩摩を征伐した張本人として、西郷贔屓の鹿児島では嫌われ、近年まで地元への納骨すら避けられていた。現在、鹿児島市には大久保の銅像があるが、これは没後100年に際して東京から「なぜ鹿児島に大久保の銅像がないのか」と言われて、渋々作ったとされる説がある。

大久保利通を水神として祀る「大久保神社」が、福島県郡山市にある。

雅号:甲東
座右の銘:「為政清明」、「堅忍不抜」
身長:178cm、体重:65kg。血液型はO型。

家族・子孫
安政4年(1857年)に薩摩藩士早崎七郎右衛門の次女・満寿子と結婚。満寿子との間には、長男大久保利和(貴族院議員)・次男牧野伸顕(内大臣)・三男大久保利武(大阪府知事)・五男石原雄熊・長女芳子が生まれた。芳子は後の外務大臣伊集院彦吉に嫁いだ。大久保には妻の外におゆう(杉浦勇)という愛妾が居り、おゆうとの間に四男大久保利夫(海軍少尉)・六男大久保駿熊・七男大久保七熊(農学者)・八男大久保利賢(横浜正金銀行頭取)を儲けた。

孫の大久保利謙は日本近代史家で東大名誉教授。もう一人の孫大久保利春は丸紅専務で、ロッキード事件に際しては贈賄側の一人として逮捕・起訴され有罪判決を受けた。「じいさんにあわせる顔がない」が口癖だったという。

曾孫に吉田健一(作家)、大久保利晃(放射線影響研究所理事長、前産業医科大学長)、玄孫に寛仁親王妃信子、牧野力(通産事務次官)、麻生太郎(内閣総理大臣)、武見敬三(元参議院議員)。

系譜
大久保氏
明確ではないが藤原氏末流を称している。家紋は三つ藤巴。戦国時代末に京都から薩摩に移るというが、系図は貞享年間に市来郷川上に中宿(城下に籍を残したまま他郷へ移住すること)した仲兵衛より始まる。
仲兵衛━勘之丞━正左衛門━正左衛門━利辰━利政━利敬┳利建=利世━利通━┳利和==利武┳利謙━┳利泰━洋子
                          ┣利貞  ↑    ┣伸顕━伸通↑┣利正 ┗成子
                          ┗利世――┘ ┣利武―――┘┗通忠
                                    ┣利夫
                                    ┣雄熊
                                    ┣駿熊
                                    ┣七熊
                                    ┣芳子
                                    ┗利賢┳利春
                                       ┣利秀
                                       ┗利康

2009年01月22日

近代における死刑の変遷

近代に至って、西洋で人権という新しい概念が開発され、民主主義・資本主義への移行に伴い統治機構の整備・改革が行われるにつれ、死刑の扱いは変更された。

まず、啓蒙時代のカントやロックが、刑罰を「人権侵害に対する国家による報復である」と位置付け、死刑はあくまで生命権を侵害したもの、懲役は自由権を侵害したものに科せられるべきと論じた。そのため死刑は「重大犯罪に対する特別な刑罰」と位置づけられるようになり、比較的軽度の犯罪については新たに普及しはじめた自由刑に移行していった(自由刑の普及には、「受刑者を死なせるよりは、労働力として活用する方が社会にとってメリットがある」といった経済的事情もからんでいる)。

また、祭事性が否定され、非公開とされる傾向が強まった。

さらに、身体刑の要素が削減されて刑罰内容が「生命を奪う」ことに純化され、方法は「強い苦痛を与える方法」を避けて「ギロチン」「絞首刑」「電気椅子」「毒物注射」「銃殺刑」などの比較的短時間にあまり苦痛を伴わずに死ぬようなものに変わっていった。この変化にあわせて、多くの国で死刑の方法が1種類ないしごく少数の種類に統合され、死刑の中での区別が行われにくくなる(行われなくなる)という変遷も生じている[1][2][3]。

^ 近代になると死刑執行方法として最終的には絞首刑と斬首刑が残ったが、どちらが人道的な刑罰なのかについては国によって意見が分かれている。フランス、ドイツ、スェーデンなどでは絞首刑を廃止して斬首刑のみになっているが、イギリスを初めとするイギリス連邦諸国では斬首刑を廃止して絞首刑のみになっている。日本も斬首刑を廃止して絞首刑のみとなった国である。フランスでは死刑の方法を単一化するに当たって、絞首刑と斬首刑のどちらにするかで議論が起きている、その結果として斬首刑を行う専門の装置となるギロチンが誕生している。
^ 例外的に、アメリカでは近代になるほどガス室、電気椅子、薬殺など多様な死刑執行方法が開発され、並行して使われるようになった。
^ 現代でも斬首刑、絞首刑、銃殺刑が平行して実施されている国としては、サウジアラビアなど一部のイスラム法の国を挙げることができる。

現代における死刑
現代の一般的な法体系においては、死刑は一番重い刑罰とされる(極刑とも呼ばれる)。非常に重いとされる罪・主に殺人罪に対して科されるのが一般的である[1]。

21世紀初頭の時点では、死刑について、さまざまな国がさまざまな考え方をしており、人類としての合意は存在しない。その結果として、死刑存続国と廃止国の間では外国人が死刑になるような事件が起きると外交問題へと発展する事例も増えている[2]。シンガポールではオーストラリア人の麻薬犯罪者に対して一度死刑を執行したが、外交問題に発展し、以降は執行されなくなった。また、死刑判決が下る可能性がある犯罪者が死刑廃止国へ逃亡した場合には、引き渡しを拒否される事例も増えている。

^ ただし、このあたりは各国法制度の設計にはかなりの幅があり、重い経済犯罪や強姦・麻薬などに対しても死刑が選択される国もある。
^ 死刑を宣告された犯罪者が死刑を廃止した国の国民である場合には、外交問題への発展を避けるために、減刑や執行停止が行われる事例が多発している。

制度
死刑制度の是非については世界的に多くの議論があり、死刑制度を設けている国と設けていない国がある。また、法律上は死刑制度を設けていても実際には死刑を執行していない国もある。また、一般犯罪においては死刑を廃止し、国事犯(外患誘致やスパイ行為など)や軍事法廷(軍法会議)における脱走罪・敵前逃亡・利敵行為などに対してのみ死刑を残している国もある。

根拠
目的刑論(一般予防論・特別予防論)
応報刑論
粛清

死刑制度の目的

死刑の法的根拠
刑罰は応報的な面があるのは事実であるが、死刑が社会的存在を消し去るものであるため、死刑が近代刑罰が忌諱する応報的な刑罰ではないとする法学的根拠が必要とされている。一般予防説に従えば、「死刑は、犯罪者の生を奪うことにより、犯罪を予定する者に対して威嚇をなし、犯罪を予定する者に犯行を思い止まらせるようにするために存在する。」ということになる。

特別予防説に従えば、「死刑は、矯正不能な犯罪者を一般社会に復して再び害悪が生じることがないようにするために、犯罪者の排除を行う。」ということになる。
トロラン マケド サイフォ 支援ハム ファー キール ジェット レーダー ロールオ デイゲ モール かでな ルーレット タラソテ アーク コート ユークリッ さがほのか ピュービッ チリメン マーク リスク シルク カーゴ 未来の地図 ほこた クローズ ナチズ リバイ スベタパ イヌホ 一所懸命 リズミカル ジンマオ 星空の ロマンチスト ヒメジョオ ケジャン フェースラ デコサ タート ニンフ パラフェニ 浮草の宿 プレイボ カミーン チボール かせい アイト ユキモチ

日本やアメリカなど、死刑対象が主に殺人以上の罪を犯した者の場合、死刑は他人の生命を奪った(他人の人権・生きる権利を剥奪した)罪に対して等しい責任(刑事責任)を取らせることということになる。

一般的な死刑賛成論者は予防論と応報刑論をあげるが、応報論の延長として敵討つまり、殺人犯に対する報復という発想もある。近代の死刑制度は、被害者のあだ討ちによる社会秩序の弊害を国家が代替することで無くす側面も存在する。国家の捜査能力が低い近代以前は、むしろ仇討ちを是認あるいは義務としていた社会もあり、それは被害者家族に犯罪者の処罰の責任を負わせて、以て捜査、処罰などの刑事制度の一部を構成させていたという側面もある。

殺人などの凶悪犯罪では、裁判官が量刑を決める際に応報は考慮されている。基本的には近代刑法では応報刑を否認する事を原則としているが、実際の懲役刑の刑期の長短などは被害者に与えた苦痛や、自己中心的な感情による犯行動機があるなど酌量すべきでないなど、応報に基づいておこなれている。ただし、死刑の執行方法は被害者と同様(たとえば焼死させたからといって火あぶりに処すなど)の処刑方法でなく、「人道的」な方法が取られる。

日本では日本国憲法下で初めて死刑を合憲とした判決(死刑制度合憲判決事件、最高裁判所昭和23年3月12日大法廷判決)において、応報論ではなく威嚇効果と無力化効果(隔離効果)による予防説に基づいて合憲とされた。

2009年01月15日

オーストリア・ハンガリー帝国軍の志願兵

リクエ ロジック ヒエラル ピーピーエ ラチェット カクシダ インタレ おおは ビジョ ラック プラム 菜の花 さとうき ビルボ ジュース ドウダ ぐぁば ラディ ロープ キャデ ブラッ かかお シューズ 総合ツタ ドクトル かじか オガタ ハルニレ シンプレ スカート あくふ スペルマ ロット モレーン キャッ スプリン たいめし支 テンソ モー シニフィ オウツ ファーザー ヒドラ レッドス ばらいろ ルビ ガーナイト コペン ワエロ フィス

1914年、第一次世界大戦が勃発し、8月7日にウィトゲンシュタインはオーストリア・ハンガリー帝国軍の志願兵になっている。クラクフへ着任し巡視船ゴプラナ号内で過ごすことになるが、隊内では孤独にさいなまれ、さらに兄パウルが重傷を負ってピアニスト生命を絶たれたと聞き「こんなときに哲学がなんの役に立つのか」との疑問に陥り、しばしば自殺を考える。そんなある日、ふと本屋へ立ち寄るがそこには1冊しか本が置いていなかった。それはトルストイによる福音書の解説書であり、ウィトゲンシュタインはこの本を購入して兵役期間中むさぼり読み、信仰に目覚めて精神的な危機を脱した。誰彼かまわずこの本を読んでみるよう薦め、戦友から「福音書の男」という仇名までつけられるほど熱中したという[6]。このころから彼は哲学的・宗教的な内省をノートに頻繁に書き留めている。これらのメモのうち最も注目に値するのは、のちに『論考』で全面的に展開される写像理論のアイディアであろう。これは後年の述懐によると、塹壕の中で読んだ雑誌の交通事故についての記事中の、事故についての様々な図式解説からヒントを得たものだという。11月にはかつて財政支援をした詩人ゲオルク・トラークルが鬱病で入院しウィトゲンシュタインに会いたがっているとの知らせを受け取る。自身も孤独と憂鬱に悩まされていたこともあり、あの天才詩人と親しく話せる仲になれればなんと幸せなことかと喜び勇んで病院へ見舞いに向かったが、到着したのはトラークルがコカインの過剰摂取により自殺した3日後のことであった。またニーチェの選集も買い求めて『アンチ・キリスト』などのある部分には共感を覚えながらも信仰の念をかえって強める。

1915年に入ると、工廠の仕事に回されたため哲学的思索に耽る時間がなくなり自殺願望が再発するが、友人の手紙に励まされて再び執筆を始め、多くの草稿を残す。『論考』の第一稿もこのころには完成していたことがラッセル宛の書簡で知られているが現存していない。1916年3月、対ロシア戦の最前線に砲兵連隊の一員として配属される。ロシア軍の猛攻撃のさいには避難命令を斥けてまで戦い抜いた功績で勲章を受け、伍長へ昇進した。1917年後半にはロシア革命の影響で戦況が比較的平穏になり、ウィーンで休暇を取って過ごすこともできた。1918年には少尉に昇進、やがて協商国(イギリス、フランス、イタリア)軍と対峙するイタリア戦線の山岳砲兵部隊へ配属となる。ここでも偵察兵としてきわめて優秀な働きにより二度目の受勲をした。しかしオーストリア軍全体の劣勢は明らかであり、退却を余儀なくされたのち再び休暇が与えられる。この休暇中にはウィーンへ戻らず、ザルツブルクの叔父の家でついに『論考』を脱稿する[7])。さっそく敬愛する批評家カール・クラウスの著書を刊行していた出版社へ原稿を送るが、出版は拒否されてしまう。やむをえずウィトゲンシュタインはすでに崩壊しつつあるイタリアの前線へ戻るが、11月4日のオーストリア降伏の直前にイタリア軍の捕虜となり、はじめはコモ、のちにカッシーノの捕虜収容所へ送られることとなった。

1919年、ウィトゲンシュタインは収容所からラッセルに書き送った手紙で『論考』の概略を伝える[8]。ラッセルはその重要性に気づき、収容所へ面会に行かなければならないと思ったが、そもそもラッセル自身が反戦運動により刑務所に投獄されていた。しかし、当時パリ講和会議のイギリス代表で各国政府機関に顔の利いたケインズの尽力で得た特権により、原稿はラッセルやフレーゲの元へ届けられた。そして8月21日、ウィトゲンシュタインはようやく釈放される。

2009年01月08日

世界三大料理

世界三大料理
中華料理、トルコ料理、フランス料理[58] 《トルコ料理の代わりにイタリア料理を入れる場合や、「自分の国の料理」を入れる場合もある》
世界三大穀物
小麦、米、トウモロコシ[59]
世界三大珍味
キャビア、トリュフ、フォアグラ[60]
世界三大嗜好飲料
コーヒー、紅茶、マテ茶[61] 《マテ茶の代わりにココアを入れる場合もある》
世界三大紅茶
ウバ、祁門、ダージリン[62]
世界三大スープ
トムヤムクン、ふかひれスープ、ボルシチ[63] 《ブイヤベース》
世界三大ハム
金華火腿、ハモン・セラーノ、プロシュット・ディ・パルマ[64]
世界三大ブルーチーズ
ゴルゴンゾーラ、スティルトン、ロックフォール[65]
世界三大果実
チェリモヤ、マンゴー、マンゴスチン[66] 《マンゴーないしマンゴスチンの代わりにパイナップルを入れる場合もある。なお、果物の王様ドリアンは入っていない》
世界三大ビール生産地
札幌、ミュンヘン、ミルウォーキー[67]
世界三大米料理
パエリア、ピラフ、リゾット[68] 《チャーハン》
世界三大美食都市
東京、パリ、ニューヨーク

世界三大通貨
アメリカ合衆国ドル、円、ユーロ[70][71] 《人民元、スイス・フラン、ロシア・ルーブル》
ユーロ導入以前はUKポンド、もしくはドイツマルクがその地位にあった。
世界三大経済大国
アメリカ合衆国、ドイツ連邦共和国、日本国[72]
世界三大証券取引所
東京証券取引所、ニューヨーク証券取引所、ロンドン証券取引所[73]
世界三大都市
東京、ニューヨーク、ロンドン[74] 
世界三大グローバル都市
 ニューヨーク、パリ、ロンドン[75] 
世界三大ビジネス都市(世界三大経済都市)
東京、ニューヨーク、ロンドン[76]
世界三大観光都市
(ヨーロッパ圏)アテネ、パリ、ローマ[要出典]
(アメリカ圏)バンコク、フィレンツェ、ブエノスアイレス[77]
世界三大モーターショー
東京モーターショー、フランクフルトモーターショー、北米国際オートショー[78]
世界三大ゲーム展示会
E3(アメリカ)、ECTS(イギリス)、東京ゲームショウ(日本)[79] 《Game Convention(ドイツ)》
E3は規模が縮小したため、これについては議論の余地がある。
世界三大高級時計メーカー
ヴァシュロン・コンスタンタン、オーデマ・ピゲ、パテック・フィリップ[80]
世界三大自動車メーカー
ゼネラルモーターズ、トヨタ自動車、フォード・モーター[要出典]
世界三大高級乗用車ブランド
ベントレー、マイバッハ、ロールス・ロイス[要出典] 《かつてはデイムラー》
世界三大航空機用エンジンメーカー
ゼネラル・エレクトリック、プラット・アンド・ホイットニー、ロールス・ロイス[81]
世界三大IT企業
IBM、インテル、マイクロソフト[要出典] 《アップル、NEC、HP》

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